今回は、最近のマイテーマ、「自給自足型社会」について書いてみようと思います。
辞書の定義では、
自給=必要なものを自らまかなうこと。
自足=自分の置かれた状況に満足すること。必要なものを自分で間に合わせること。
という意味。
その意味するところは、決して原始時代の生活に戻るということではなく、食糧の話に限ったものでもなく、「自分たちでつくり、充足する」ということ。
ものを自分でつくったり、地域の教育を自分たちでつくったり、暮らし方や、夢を自分たちでつくったり。すなわち、「生き方」を自給自足するということ。
充足する、という言葉が入っている通り、際限なくつくりまくる、のではなくて、自分たちで満足感・幸福感を持てる(歯止めが利く)、というところもナイスガイな言葉。
自給自足型社会の話をする前に、まずは時代の大きな変化を見ていきたい。(ちょっとだけ小生意気な文調で)
◆「生産者」と「消費者」が分断された
産業革命以降、世界は物質的・金銭的に豊かになりつつも、「生産者」と「消費者」の距離はじわじわと離れていった。
「お金を払えば、商品を購入できる。」「商品に問題があれば、クレームをつけてよい。」
このはっきりしたルールのお陰で、あらゆる産業が発展していった。
めちゃくちゃ便利になったけれど、与えられることに慣れ、僕らの消費者気分はもはや最高潮だ。
ビジネスのルール内から飛び出て、政治も教育も、「自分たちは消費者だYO!」という気分になる。
放っておいても良いものが届けられるのは当然で、
「景気が良くならない、就職先がないのは政治家のせいだっ!」
「学校でトラブルが起きたら、全部先生のせいだっ!」
となってくる。
これらの公共的な分野にも当然に役割・責任分担は重要だけれど、全てがきれいに分離されてしまうと、「より良くしていくこと」が「自分ごと」にならなくなってくる。
「自分ごと」として、自分にも少なからず責任があるというスタンスで関わらないと、それは時に現場を圧迫するクレームとなる。
責任と関与はセットだ。あらゆるものが、洗剤を買うのと同じように「与えられる」わけではない、というスタンスに立つということだ。
もし一人ひとりが公共分野に無関心で放っておいたら、そもそも民主主義は成り立たない。仮想敵をつくって叩いてばっかりいても、変えてくれるヒーローを待ち望んでいても、社会は変わらない。民主主義は面倒くさくてコストがかかるのだ。
(加えて、競争社会・個の時代が進むと、自分のことで精一杯で、公共や他人への関心など持っている暇がなくなる人も増える。)
◆「生き方」も社会から与えられる
この与えられ意識は、政治や教育と行った公共的な領域に留まらず、一人ひとりの働き方や暮らし方、ひいては生き方にまで及んでくる。
個々人のキャリア・生き方にも、既存の成功レールが社会から与えられる。
世の中で正解と言われている前提に乗っかり、子育て・受験や就職、就労をしていく。
高成長が続き、雇用が安定し、年収が上がり続ける世界では、「与えられる」ということに対して、そこまで疑問は生まれにくい。
この期間が長く続くと、たとえ外部環境が変化しても、与えられる仕事や生き方に乗っかっていれば大丈夫という一握の希望が定着する。
いつの間にか、自分の生き方を「自分ごと」として考えられなくなってくる。
そもそも、「分離する」「与えられる」ということは、「外部要因に振り回されやすい」ということでもある。
原油価格、リーマンショック、大企業の海外シフト、ロボット技術の進歩、、今の自分とは離れたところにある色々な要因が影響してくるのだ。
事実、突然会社がつぶれてしまったり、大量のリストラが発生したり、いい大学を出ても就職できない、という現象が起きてきている。
政治や教育も、放っておいたら良くならないばかりか、気づかないうちに自分にとってネガティブな方向に進む可能性だってある。
これをある程度コントロールするには、自分ごととして参加すること、自分たちで創るということが欠かせなくなってくる。
消費者気分にドロップキックするのだ。
◆「大量生産」「金銭一元主義」時代の終焉
外部要因の大きなものとして、「大量生産・大量消費」の時代が終焉に向かいつつあるということがある。
大量生産された商品は、コモディティ化が進み、どんどん利益がなくなっていく。グローバル化もこれを後押しする。
生活必需品は価格だけで比較して大量生産品を買ったりするけど、それ以外はもはや買わない。ものが全然売れない。売っても赤字になったりする。
これまでの延長線上でものをつくり続けても、もはや解決しない。旧態依然とした戦略コンサルを雇ってもどうにもならない。
売る側にしても、コストしか差別化のないコピー機を売りまくれ!と言われても全然やる気がでない。たとえ誰もが知っている大企業であっても、最近の若者はそういう仕事につきたがらないのだ。
最近の若者は根性がない、という見方では片付けられない。給料も上がらないし、いつクビになるかもわからない時代は、これまでとは前提が違うのである。
仕事の分業化・効率化が進む中で、お客さんの顔が見えなくなり、仕事はマニュアル化された。
創造的で、肌触り感があって、人間が純粋に楽しいと感じる仕事が減った。
マニュアル化された仕事は、日に日に新興国やロボットに代替されていく。
こんな時代に生まれ育ち、バブルを経験せず、高い経済成長も期待していない若い世代は、ブランドとか、成功のレールといったものには期待しなくなる。
年収はそこそこあるけど、毎日終電、仕事の意義をあまり感じない働き方や、定年までは耐えて日夜働いて定年後に初めて自己実現する、という順序にも疑問を持ち始めている。
これまでは組織で出世した人と、ビジネスで死ぬほど稼いだ人が「成功した人」だったけれど、あくまで「成功」の一つのパターンに過ぎないと思い始めている。「ビジネスパーソンで歴史に残ってる人ってジョブズくらいじゃん?」といった具合に。
金銭一元主義から、豊かさ・幸福感の多様化が着実に起きているのだ。
勿論、依然として金銭は重要で、生活が厳しいと、自尊心も想像力もなくなっていってしまう。欲望もあるし、時には贅沢もしたい。
しかし、全ての人間が際限なく金銭を追求し続けるという前提は変わってくる。年収700万円のラインを超えると幸福度は変わらないという調査結果もある。
(これは都市に住む場合で、地方に住むと生活費は安くなったり、気の合う仲間とシェアして住むなどすれば、さらに値は下がる。)
これまでの前提が壊れた今、どう生きていくか?どのような社会を創っていくか?
後編では、こんな時代の中で特に若い世代から生まれ始めている「自給自足」な動きについて書きます。
丑田俊輔
後半はこちらから