四角い銅の仕切りの並んだ、釜から、少しかたまった、上皮の湯葉を、竹箸で上手にすくいあげて、その上の細い竹の棒に干す。棒はいくつか上下にあって、湯葉のかわきにしたがって、上へ移してゆく。
この作品を皮切りに、川端康成の他の作品はもちろんのこと、次々と色んな文豪の作品に手を出しています。
志賀直哉の『城の崎にて』にはこんな文章があります。
湯治で訪れた温泉宿。二階から見える蜂の死骸。それを見つめる筆者の心に浮かぶ静けさと淋しさが、質感を持って伝わってきませんか。
それが又如何にも死んだものといふ感じを与へるのだ。それは三日程その儘になつてゐた。それは見てゐて如何にも静かな感じを与へた。淋しかつた。他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見ることは淋しかつた。然しそれは如何にも静かだつた。
中学だか高校だかの教科書にも載っていたような気がしますが、当時はこんな風に感動はしませんでした。日本を離れていることで、より一層、こうした表現に感じ入るのかもしれませんね。
毎日の暮らしのなかで様々な感動や驚きを感じる心というのはいつの時代も変わらないとは思いますが、その時の行動は大きく変化しています。
現代では、ハッとしたことに出会うと、すぐさまスマートフォンを取り出し、写真や動画をフェイスブックに投稿するというのが多いと思います。
とても簡単で便利なうえに、投稿するやいなや世界中の友人の反応が得られて、なんとも気持ちの良いツールです。
しかし、投稿する側もいいねする側も反射的に応答できるという便利さゆえに、なぜそのような投稿をしたのか、何がどのように目に映ったのか、心を打ったのか、と言った内省のプロセスが浅くなる、あるいはそもそもそういった過程がごっそりと抜け落ちてしまいがちなのではないでしょうか。
返す返すも言語は万能なものではないこと、その働きは不自由であり、時には有害であることを、忘れてはならないのであります。
毎日目の前を流れる膨大な情報に対して、脊髄反射的におざなりの言葉を返すばかりでなく、時には自分自身の声に耳を傾け、言葉を尽くして想いを表現してみるということが、心を豊かにし人に優しくなるために必要なのではないでしょうか。