「創ることに参加する」「参加の仕方」という古くて新しいOS



こんにちは、丑田です。

昨年、
「自給自足型社会の到来(前編)〜消費者気分にドロップキック〜」
「自給自足型社会の到来(後編)〜「創ることに参加」することを楽しむ〜」
という記事を書きました。
色々な方々から反響を頂きとても嬉しく、自分自身としてもより思考を深めるキッカケにもなりました。
今回はこの話の補論的な位置付けの記事を書こうと思います。

要旨は、以下の通りです。
・公共的な分野に「自分ごととして参加する」ことはとても重要
・しかしここで同時に、「参加の仕方」も重要となってくる
・「創ることに参加することを楽しむ」「参加の仕方」という、二つのOSを身につけていこう!

◆公共的な分野に「参加」するということ

前編で、以下のような文章を書いた。
——
これらの公共的な分野にも当然に役割・責任分担は重要だけれど、全てがきれいに分離されてしまうと、「より良くしていくこと」が「自分ごと」にならなくなってくる。
「自分ごと」として、自分にも少なからず責任があるというスタンスで関わらないと、それは時に現場を圧迫するクレームとなる。
責任と関与はセットだ。あらゆるものが、洗剤を買うのと同じように「与えられる」わけではない、というスタンスに立つということだ。
もし一人ひとりが公共分野に無関心で放っておいたら、そもそも民主主義は成り立たない。仮想敵をつくって叩いてばっかりいても、変えてくれるヒーローを待ち望んでいても、社会は変わらない。民主主義は面倒くさくてコストがかかるのだ。
——

民主主義社会において、公共的な分野に「自分ごととして参加する」ことはとても重要、という話だ。

何かに「参加」する時、「どこまで参加するか」「どのように参加するか」という視点が出てくる。
特に公共的な領域になると、これは少しばかり難しい。

僕達が関わる教育の世界を例に挙げてみる。

「教育に参加する」という流れは国内でも確実に生まれていて、それは最近のコミュニティスクールの推進、などにもあらわれている。

以前訪れたデンマークでは、地域の人たちや両親が、学校教育・社会教育を自分ごととして捉え、参加していた。
学校の中長期の目指す姿を先生・両親・生徒会長で決めたり、ペンキの落ちた校舎をオシャレにするために土日に親御さんと子ども達が学校に来てペンキ塗りをしたり。
先生は一人ひとりの生徒に寄り添い可能性を最大化するプロとして尊敬されていて、プロの領域はプロに任せる、という理解もある。
地域住民が自分たちで決めたことなので納得して任せられる、という話も聞き、これにはとても感銘を受けた。

学校・保護者・生徒で創った学校の目標

一方で、「教育に参加する」ことは、結果として、何でもかんでもポジティブな影響を生んでいるわけではない。
一例として、元小学校教師の知人の下記記事に詳しくあるが、時に現場を圧迫したり、先生方を鬱にしたり、というケースを生んでしまう場合もある。
「僕が小学校の先生を辞めた一番ネガティブな理由。」

これらは決して「悪意を持って学校を困らせよう」というモチベーションでやっているわけではなく、「自分の子どもに幸せになってほしい」という意識から生まれていることも忘れてはいけないことだ。

また、何でもかんでも皆で参加しようぜ、となると、素人的になってどこかで「専門性」の壁にぶちあたっていくし、結果的に共同体が存続できなくなってしまうかもしれない。ここから先は「プロに委ねよう」という意識も重要だと思う。

まとめると、「創ることに参加する」ことは重要だけれど、「参加の仕方」も重要、なのだと思う。
政治の世界でも、「選挙に行く」のはものすごく重要だけれど、「なんかよくわからないけどこの勢いありそうな人に入れとこう」となると果たしてポジティブな結果が生まれるかはわからない。

◆公共的な分野への「参加の仕方」

まずは、
「消費者気分ではなく、自分ごととして参加する」
これが前提になってくると思う。そうしないと、いつの間にか仮想敵をつくってしまうからだ。
「自分ごと」として、自分にも少なからず責任があるというスタンスで関わらないと、それは時に現場を圧迫するクレームとなる。
「自分ごと」であれば、自分でもしっかり勉強をする、現場を深く知る、といったコストもかけることができる。

そして、「自分ごと」と同時に、
「自分の利益のみではなく、共同体に与える影響にも想像力を巡らせる」
ということ。
自分の家の標識を「自分で創る」場合はどんなにFunkyなものをつくるのも自分次第だけれど、多くの人たちに影響を及ぼすテーマにおいては、想像力の幅をぐっと広げていく努力が必要だ。エゴ的な意識とエコ的な意識を同居させていくイメージである。

最後に、
「自分が責任を引き受けられる範囲で参加する。プロに任せるところは信頼して任せる」
というスタンス。
全ての領域に参加していたら、時間はいくらあっても足りなくなってしまうし、深い専門性が必要なエリアは確実に存在するためだ。

思っていることを幾つか書いてみたが、ここは是非皆さんからのアイデアも頂きたい。

◆スウェーデンの中学教科書と、2つの古くて新しいOS

このようなことを考える中で、北欧で触れたものはとてもヒントがあり、日本でも出版されている「あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書」は、しびれる内容だ。
コミューンの行政と住民の役割、社会保障制度、法律的権利と義務、などをかなりわかりやすく踏み込んで書いている。市民社会の一員としての意識をいかに芽生えさせていくかを重要視している。
これはまさに、「あなた自身の社会」への「参加の仕方」を、義務教育過程からじっくり学び、OSとして身につけていくことを意図した取り組みだ。

より良い未来を、自分たちで創っていくためには?
「創ることに参加することを楽しむ」というOSと、シチズンシップ教育的な視点での「参加の仕方」というOSを一人ひとりが身につけていく、ことが重要なのだと思う。
これらは、実は古くからあって、ひと時の間に意味合いが薄れ、再び必要となってきた考え方かもしれない。

このダブルOSをアップデートした大人達の背中は、未来を担う次世代の子ども達にも「カッコイイ!」と映るはず?!

丑田俊輔

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